だだをこねたこどもが泣いている。そのそばで、なかばヒステリックにわめく母親。 「『ごめんなさい』しなさい! 『ごめんなさい』をいえない子は、お母さんキライ!」 「キライ」ということばに反応して、こどもはますますボリュームを上げて泣く。母親は自分のことばが効果をうまなかったことにいらだって、いっそういきり立つ。これって悪循環。 こういった光景は、電車のなかやデパートで、ときどき見かける。お母さんもいろいろ大変なのかもしれないな、とちょっぴり同情しつつも、言い方を変えてみたらいいのに、とハルコは思う。 「『ごめんなさい』をいえない子はキライ」 じゃなくて、 「『ごめんなさい』をいえる子、大好き」 というふうに。おとなだって、仕事のときに、 「目標数値を達成できなかったら承知しないぞ!」 といわれたら、それはそれでがんばるとは思うけれど、萎縮して、からだに無駄な力が入りそうだ。でも、 「目標数値を達成できたら、キミは伸びるぞ!」 といわれたら、やる気をもって、のびのびがんばれそうに思う。 同じことを伝えるにしても、“肯定形”を使うのと“否定形”を使うのとでは、受けとり手の印象は、まるで違うのではないだろうか。「〜できなかったらおしおき」的なアプローチも、あるときには必要かもしれないけれど、「〜できたらごほうび」のほうが、いわれたほうは断然うれしいよね。 そういえば、このあいだ、わがまま放題のお客さんとの交渉が決裂して、すごく落ち込んだ。私の対応がまずかったのかな。 そんなとき、同僚のマサトは、 「あのお客さんじゃ、しかたがないよ」 となぐさめてくれた。チーフのコウヘイさんは、 「十分やったじゃないか」 といってくれた。対照的といえば、対照的ななぐさめ。どちらも自分を気遣ってくれる気持ちは同じだったのだろうけど、「しかたがない」といううしろ向きな表現より、「十分やった」と前向きに肯定されるほうが、いやな気分が晴れる気がした。 泣き続けるこどもに「泣きやんだら、お母さんうれしいな」といってみる価値はあるんじゃないかな。同じ光景に遭遇するたび、ハルコは思う。 * * * * * * * * 立場が上の人が下の人に対してなにかを要求するとき、否定的な表現を使うことが多いように思います。 「これができないと、昇格は無理だ」 とか、 「片付けないと、おやつ抜き」 とか。たいていが「その要求を満たさなければ罰」というパターンです。 扱う内容が“罰”ほどおおごとでなくても、「〜ない」という否定形は、無意識に多く使われています。 「やせたいなら、1600キロカロリー以上摂らない」 だったり、 「早くしないと間に合わない」 だったり。否定形が日頃、無造作に使われているため、いうほうも、いわれるほうも、否定形だということをあまり意識しないので、別段問題に思わないのかもしれません。 でも、先のふたつを肯定形に言い換えてみると、否定形の問題がわかるはずです。 →「やせたいなら、1600キロカロリーまでは摂っていい」 →「早くすれば間に合う」 いかがでしょう。印象もニュアンスも、かなり変わりませんか。 “否定形”は、トンネルの出口がどんどんすぼまっていくような感じ。トンネルのなかは射し込む光の量も少なく、禁止や制約のなかで身動きがとりにくいところを、なんとしても前に進まなければならないイメージです。 それにくらべて“肯定形”では、トンネルの出口は広がっています。出口からはちゃんと光も射し込み、それなりに制約はあるものの、希望を胸にしながら前進できるイメージです。 同じことをいうにしても、相手に与える影響はまるで逆なのです。 肯定形を使うことは、相手に対する配慮という意味合いにとどまりません。肯定形は、いわれる側だけではなく、いう側にもいい感化を及ぼします。 「そんなこともできないようだからダメなんだ」 と言い放てば、相手が心底ダメに思えます。でも、 「それができるようになると、うまくいくんだぞ」 と肯定形に言い換えると、相手の可能性を信じようという気になります。ウソだと思ったら、身近な人を相手にいってみてください。 否定形はおおむね相手の不安をあおります。ときにはその手法も使わざるをえない場面があるかもしれませんが、相手との信頼関係を深めたいなら断然、肯定形に軍配が上がります。 相手に要求や要望をするなら肯定形を、メッセージを伝えるときも前向きな表現を心がけたいものです。 マサトさんがハルコさんにかけた「しかたがないよ」ということば。なにもことばをかけないよりは、共感を示しただけいいのですが、コウヘイさんの「十分やったじゃないか」にくらべると、影が薄くなります。コウヘイさんのことばのほうが、ハルコさんをしっかり認めているという点で力強く、ハルコさんに前進を促すのです。 ことばのマジック。接する相手のためにも自分自身のためにも、使わない手はありません。